先日、小田急線の車内でバッタリ「知り合い」に会いました・・・
マスクをしていたので、風邪でも引いているのかな?と思って
「大丈夫?」と聞いたところ、相手は、「えっ?何こいつ?」というような、表情でこちらを見ているのです。
こちらからいろいろ話しかけるのですが、まったく反応が返ってきません。
なんだか、雰囲気がどんどん気まずい感じになっていきます。
「もしかして・・・」
初めて、相手が喋ってくれました。
「・・・人違いじゃありませんか?」
マスクを取ってくれた顔を見て、知り合いではないことに初めて気が付きました。 😥
全く知らない人に、親しげに喋りかけていたわけです。 😮
そりゃ相手も警戒しますよね。
あわてて「スミマセン!!」と謝って、隣の車両にそそくさと移動しました。
自分で顔に血が上っているのがわかるぐらい、恥ずかしい
体験でした。
このように誰でも「恥ずかしい」と思う瞬間に遭遇したことは
1度や2度・・・いや、10回や20回はあるのではないでしょうか?
よく「日本は恥の文化、西洋は罪の文化」と言われます。
その背景は、日本は、人の目を気にして、人様に迷惑をかけないで生きようと考えることが多く、そして、西洋では、神の目を気にして、神様に背かないように生きようと考えることが多いことから由来しています。 😡
ある年齢以上の方なら、親や先生から「人様に迷惑をかけないような大人になりなさい」なんて言われて育った方も多いかもしれないですね。
そんな日本の「恥の文化」の弱点のように言われているのが、
「人に迷惑をかけなければ、何をしてもいいんじゃね?」という考え方です。
確かに「人には迷惑をかけていないけど、それはないよね。」というような振舞を街中やネット上でも見かけることがあります。
また、我が子や教え子がそうであっても注意できない大人が増えているとも言われています。人に迷惑をかけなければ、何をやっても良いのが、日本の文化なのでしょうか? 😥
旧5千円札の肖像ともなっている新渡戸稲造の著書「武士道」に、その疑問に対する答えがありました。
キリスト教徒でもあった新渡戸稲造が、日本人の精神的土壌についてそのあり方、とらえ方を記した本です。
その本の中に「良心」という言葉が出てきます。
本来の「恥」という意味は、「良心に傷を負うこと」であると書かれています。
「人の目を気にしてどうこう・・・ではなく、自分の良心に背くからこそ、心が痛むのだ」 と。
つまり、、自分の中にある良心に耳を傾けなかったとしたら、人の目を気にする「恥ずかしい」しか残らず、人に迷惑をかけなければ、何をやってもいい・・・ということになってしまうわけです。 🙂
ちなみに「恥」という字は、「耳」と「心」という字を組み合わせて書きます。 🙂
私自身、まだまだ修行中の身の未熟者ではありますが、自分の中にある良心に耳を傾けられる大人でありたいと思う今日この頃です。 😡